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■PASSION のこと。PASSION OF CHRISTO そして、 PASSION SINPLE のことだ。前者が、メル・ギブスンの映画。後のほうが、1940年生まれの仏・女性作家・の作品。 「PASSION」というコトバには、受け身、受容の意味(ニュアンス)が基底としてあるのだという。そこから、キリストのほうは、「受難」と、大文字で現されるのだという。それにしても、annie・ernaux (エニー・エルノー)の短編は、あのデュラスの「ラ・マン」(愛人)のヒットと同時期のモノだというのだ。映画化されたものや、当時のフランスの評判を耳にしていただけに、このエルノーの快挙を見逃したのがつらい。 当時から、山田詠美などは、がぜん注目していたと記されている。そして、あのロラン・バルトの「断章」の引用からはいる、構成はTEXT、かのじょが自作を、TEXTとよんでいることからも、その意図の一端を知ることができる。 TEXT,とは、まさにロラン・バルトが、展開した視点なのだから。 それにしても、エルノーのこのTEXTは、非常にユニークな視点をもっている。彼女の他の作品もおなじなのだろうと予測させるが、彼女は自己分析(精神分析でなく)、自己を対象化し、自分がなにによって変化し、判断するのか、それを促すモノは何か、というような外的なファクターとの関係(性)を、問い続ける。知的な生活、経済力もなにもかも、無関係なところに<PASSION>は、追い込む。受難というのがふさわしい。シルビーバルタン、ブランド・ショップ、いくつかの女性誌、大島渚の「愛のコリーだ」、「直接的な欲望」・・・・離別、それを翻すような行為の数々。描かれない、「離別」の動機。 JENNY HOLTZER`S process check. 1977 27 years old It moves to New York. J. Participate in the Whitney Museum of American Art independent SUTADI program which KOSUSU opens. Perusal, and the charts and captions of a book are collected for the book of the directed reading list. It uses "to be obvious" as a poster, and sticks on the town in Manhattan. 1983 33 years old An electrical scoreboard is used by [ expression ] That HORUTSUA was able to make the expression domain of have been able to reverse the language expression in , and was able to carry out self-expression ""A specialist has many eccentric persons". It is what thing that it is a mother at a man. [ "it being merely helpful also in little knowledge" according to and the relation of language expression having been verified by art expression of KOSUSU, and ] that it cannot know whether it is", "a frank person not being necessarily a not necessarily more good person", "nothing being crueller than a child", and "a child being the hope of the future" ... Section 1 of "being obvious." "JENNY HOLZER" Tankosha Publishing Co., Ltd. 1944 "A pleasant act greets people". "It is better not to approach a disagreeable person". "It should divide into people, and they should be separated and touched". A "surface act makes man poor." The short sentence which HORUTSUA collects is the fragment of the past statement which are scattered on a ■ Make Walter Benjamin's consider. HORTHER draws in the sense of incongruity of the work of reading the reference of the classic left behind to the ■ Piling up their Kotva can only gain many monochrome like W and Benjamin, and ERUNO. Intensifying statement "an inflammatory essay" 1979- Jenny Holtzer の仕事は過激さを増す。そしてわれわれを取り巻く「死」へとむかう。 「交錯」とでもいうべき現象を、ここから導き出すことができる。「接触」「接遇」でもいい。彼女たちは、おなじところにいる。 # by kbwgb834 | 2004-06-15 20:46
■室井祐月というタレント作家がいる。かのじょと民俗学者・東北学の赤坂憲雄氏が、恐山であう。だれがこんな、セッティングを夢想したのだろうか。NHK・仙台てある。室井のユニークさは、知る人ぞ知るところだ。まさか、青森出身というだけで、恐山でもあるまいに。恐れを知らないとはこういう事をいうのかも知れない。かみ合わない会話は、すでに会話というモノの体裁をなしていない。一方通行、逆進行回路、クラブ会話世界の延長にあると言うことは、がぜん室井に有利だ。ここがあたしの遊里なの。なんで、「風車」なの?と。室井。「そんな難しいことわかんないよ、」と。赤坂先生。端から勝負はついている。30分だけの番組だが、恐山の風景と相まってなかなかのものだ。「会話」は、だいたいが上のような調子なのだが、充分いける。むしろ、こうした「会話」のほうが、自然なのではないか。おんなというものは、子育てをとおしてそのことを体得するのではないのか。[・・・・]いずれつづきをとおもう。breton.(つづき)2004/5/31/MON. 専門家・論理性ある見識。見識ある論理性か、どっちでも良いのだが、例の手鏡持ったW大・大学院の教授の逮捕など頻繁に続く不祥事の数々で、「世間」は、「社会」は、そうした一見もっともらしいモノに疑いのまなざしを向け始めている。別に、「対象性」でなくともわかるのだ。バランス感覚ということだ。精緻な論理と規範にいきるヒトビトの滅茶苦茶さは、だれもが知っている。坊主、教師、警察官・・・などの制服組だ。これに今更何を加えようか。自衛隊、国会議員、看護師、医者、・・・とか。どうでもいいが、先の本題に話を戻す。先生が生徒に一方通行で、「教える」。というのも妙な構図だ。一方通行なら、テキスト゛けであれば十分ではないか、独習でよいだろう。「学ぶ」は、そうした意味合いに置いては、双方向性のモノだろう。だから、知ったかぶりしないで、「なぜ、<赤いカザグルマ>なのか」に、知らないと応えた赤坂は「基本の基本を知る」ヒトなのだ。<聞き書き>なぞやっているのだから、当然といえばそうだが、なかなか世の中「思い通り」の形態を見せつけてくれる人物も多くない。山口昌男氏ではないが、これから「後藤新平」や、「吉野作造」「山本卓馬」などの独自の見識を持つ、癖のある、行動的な人物への世の中の傾斜がはじまるのかも知れない。そうでないと、「味がない」からだ。だから、網野善彦氏の高校教諭時代の回答不能の「不覚」が説得をもつのであり、アーチスト、Jenny・Holtzerの「TEXT」が、関心を呼ぶのであり、「紋切り型」の言動に対しての批判が根強いのだ。breton. # by kbwgb834 | 2004-05-31 12:48
![]() ぼくは、このような方法の旅路が続くことをきわめて重要なことだと思っている。21世紀が「方法の世紀」だというのも、そういう意味である。どんな方法の醍醐味も、2代や3代はかかるもの、7期や9期はかかるものなのだ。(松岡正剛・千夜千冊から) ポアンカレの岩波文庫本が復活していた。この「復刊」には、松岡正剛氏あたりの見識も反映しているだろうと思われる。そしてつい最近知ったのだが、数学者の岡潔氏は、そのポアンカレのところにいたというのだ。ソルボンヌ大だ。どのくらいいたのかは未確認だが、ポアンカレの魅力・吸引のなせる技である。それはこの「方法・論」につきる。氏の思考は、時の流れの中で朽ちたモノもあるが、発想・着眼・思考・方法・論理における独創は、すばらしいものがある。 たとえば、わたしが「試行」してきたものに多少の収斂があるとすれば、こうしたところになる。分野の異なるモノを併置し、個別の批判成りを展開しているが、結局は問題の派生や、事象の形成は、おおきく「全体性的なフレーム」、「構造」、「システム」、からなっている。その構造を、調査・分析・研究する事自体への批判はしないが、批判以前の「対象化」のレベルでの、「視点」「思考」「方法」が問われなければならないのだ。この最先端の、限界の「思考」に、ARTがある。そうした位置づけを、ARTにしている。 # by kbwgb834 | 2004-05-31 10:28
![]() 「過剰を破壊せよ。肉体を飢えさせ、髪を剃り、骨をあらわにし、 頭をはっきりさせ、意志を定め、感覚を制限し、家族を離れ、 教会から逃げ、害虫を殺し、心臓を吐き出し、死者を忘れよ。 時間を限り、娯楽を絶ち、自然を否定し、知人を退け、 物質を棄て、真理を忘れ、神話を解剖し、動きを止め、 衝動を封じ、すすり泣きを止め、おしゃべりを飲み下せ。 喜びを軽蔑し、感触を軽蔑し、悲劇を軽蔑し、自由を軽蔑し、 貞節を軽蔑し、希望を軽蔑し、賞賛を軽蔑し、再生産を軽蔑し、 多様性を軽蔑し、装飾を軽蔑し、解放を軽蔑し、休息を軽蔑し、 優しさを軽蔑し、光を軽蔑せよ。それは機能と同じく形の問題だ。 それは革命のことだ」 「扇情的なエッセイ」1979ー82の一節。 彼女の「扇情的な」言説は、たとえば、<システム>のうちに肯定的に向かおうとする宮沢賢治の詩、「雨にも負けず」とちょうど逆向きに存在しているとみられる。 ヴィジュアルなイメージの喚起だけを問題にし、言説に対してニュートラルな立場を保っていたホルツァーは、一転して<システム>の言説に対立し否定する場にたちます。 -------------------------------------------------------------------------------- 「悲歌」1989 から「暴行殺人」1993-94へ ホルツァーは<システム>に対する否定的な態度を鮮明にし、個の言説を<システム>に反転させます。この時点で彼女はコススの「調査」の次元を離脱し、<システム>の記号のレベルで個の表現を繰り広げる新たな芸術表現の領域を発見したのです。その言説は、「女」として生きることを深く問うものとなっています。 「私には 私に押しつけられた 熱い穴が あいている。 私は それと 生きていくことができる。 私をいたぶるために 人々がその穴を作り それを使う。 私もその穴を 傷つけることができるが 刺激のために いつもは 私の考えを そこにしまっておく。 私の心がまともなとき 私は 誰もが聞きたがらないことを 言うことができる。 私は私がよいよく知っていることを 自慢する、 しかし私の最後の やさしい部分が荒れ狂う 何故なら 私は私だけが一人で 死ぬつもりはないからだ。 私は穴をあけたままにしている。」 「悲歌」1989 の一節。 この詩とも独白とも取れるホルツァーの言説は、<システム>に散在する単文と同じスタイルを取りながら、その内容は鋭くそれらと対立しています。彼女は「母と子」1990 で母親となった女性の不安や愛情を同じ形式の単文で訴え、「戦争」1992 では、惨たらしい死の情景を描き「暴行殺人」1992-34 へと歩を進めます。 ART CONTEMPORARY IN JAPAN (河瀬昇氏より) http://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/ # by kbwgb834 | 2004-05-30 23:52
![]() アラン・コルバンの主要な著作を立て続けに読んでいる。 ○「風景と人間」 ○「音の風景」 ○「においの歴史」 ○「浜辺の風景」 ○「娼婦」 が、やはりフランスの、大陸(コンチネンタル)の、パリの「歴史」の基本じゅうぶんに、頭に入っていないと、理解できない、わからない。事象の関連は、流れは表記されている範囲でわかるが、その動機などについては、単なる受容するだけのことでしれをかないということだ。 たとえば、革命前夜のJ・J・ルソーのことだ。「エミール」「社会契約論」などのことから反逆者、異端者と化していく。逃避行から、隠遁者の生活が、なにをかれにもたらしたか。晩年の周囲の理解を超える挙動、言動の数々。「告白」「対話」「孤独な散歩者」。ここにある、近代人としての存在のいみするもの、その葛藤、矛盾、経緯・・・・それらの系譜のときほぐしを試みる、ミシェル・フーコーの「壁の中の言葉」。フーコーの方法の手続き、W・ベンヤミンの夢想、そしてこの、アラン・コルバンの方法との関連、このことが大事なのだ。かれらがイメージ(夢想)ものこそ必要なモノだ。そのこと自体は書かれない。それを推測できるだけの事象に精通していることが求められるということなのだ。 そして、かれの信奉者、ロベスピエールのことだ。流動的な情勢、その変化の中で判断を求められる立場にいるかれ自身が、変化していく。[・・・・]群衆の求めるもの。その落差、差異、狂気の中で進行する惨状の数々に、恐怖心が増幅していく。革命、それはなにか。 アランメコルバンの仕事は、歴史へのあらたな手探り、触手の獲得であるといわれる。 文章家の陥りやすい、「弊害」ではないのか。C・G・JUNGの「関連本」にあった、<また騙されるのではないかという危惧>、というような表記、突っ込みが必要なのだろう。 # by kbwgb834 | 2004-05-30 09:17
●村上隆・森ビル・そして「サトエリ」なのだ。ARTなのだ。そうした<YELLOW-CABの社長の言。「けっして、脱がせない」と。 「試写会で、号泣する女」。 いま、22歳。転勤族で、こどものころからいろいろと、仙台にもいった。 はじめてかわいいといわれた、神戸で、「大震災」にあい、友達が「消えた」。 合同葬儀というものは、そうした感覚のモノだ。1995年、だから、9年前、彼女が13歳の時のことだ。 Cutie-Honey・永井豪・原作、 Andy-Warholの戦略を踏襲しつつける、村上隆。 どうしたものか、ART最先端、・・・・・ 裏原宿を案内する、サトエリの自然体に好印象を、頭の良さを、センスの良さを感じる。一坪もない、「帽子のSHOP」。電話BOXほどの、スペースに飾られた「帽子」。客はひとりで、満杯。(やる・・・)。店の女の子との会話も自然だ。最初から、「客」なのぞではないのだ(勘違いするな)。 「佐藤江利子」という不思議。 # by kbwgb834 | 2004-05-30 05:49
米国における人身売買との戦い 人身売買防止活動の成果・2004年5月12日 米国政府の推定では、毎年、世界各地で80万~90万人の男女および子どもが、売春その他の目的で、国境を越えた人身売買の対象となっている。そのうちおよそ1万8000~2万人が、米国へ人身売買される被害者である。 2003年に米国は、世界中の人身売買との戦いに7400万ドル近くを投入したが、米国は国内における人身売買との戦いにも同様に力を入れている。以下はファクトシートである。 2004/5/30/SUN. ●以前から整理しようと思っていたのが、「中世化」のことだ。だれかが、いつからか。いいはじめたのは。そして、「情報」「都市」「存在」「表層」、「・・・・」これらの確実な関係性。安部公房の「箱男」・・・・・・の「穴という存在者(おんな)」などのことも、同次元のモノだ。 ●「都市の美化」における、ARTの役割。無意味。小地沢将之・建築学会・卒業論文・いい子、いい子の世界(ロラン・バルトのおいで、おいで)・ゴミ拾い・地域通貨・・・・こうした一連の発想。仙台市・アズリーナ(青)・イタリー・フィンランド・メディアテーク・伊藤豊彦・中野本町の家(解体・C・G・JUNG)・ ●「試行錯誤」のなかで、次第に輪郭を現しつつある。幽霊みたいなモノだ、亡霊か。絶望を絶望と思わない、絶望。という宮台真司もお仕着せが激しい。こうした関係じゃないのだ。中心というのもはっきりせず、重心めいた漠然とした程度のモノがあり、その衛星として、個々のヒト(浮遊する存在)がいる。それら、相互の「交錯」「・・・・」などの関係は、絶妙、いい加減、曖昧、偶然な゛に支配されている、と考えたほうがよいだろう。 ●ハンチントンの「文明の衝突」、CHECK,アラン・コルバンは、どうも「二番煎じ」だな。出がらし。ミシェル・フーコーあたりの先駆者の食いちぎったモノの後処理業者。ハイエナ感覚だ。もちろん、W・ベンヤミンのようなイメージはあるが、そこまでの輝きを持たない。 # by kbwgb834 | 2004-05-30 05:29
「においの歴史」アラン・コルバン著、山田登世子・鹿島茂訳、藤原書店、1990.12-5,000E,
ミシェル・フーコーの大きさを、改めて感じることになる。どう、いったものか。勉強熱心な文章家の仕事、ということになるのだろうか。あまり好印象はもてない。フーコーが、切り拓いた領域・・・「性・監獄・狂気」により近代の検証をなす。これが「構造主義」。周囲に散らばった事象に目をやり、拾い上げ、おもむろにブツブツ、これがアラン・コルバンの仕事ではないのか。W・ベンヤミンの「発想」があり、その構成力、イメージ。対して、「感性」といいながら、それは支配された無意識を行為するだけのモノでしかない。[・・・・]アナール派、プローデルの「地中海」の仕事とは別種のモノか。網野善彦などの視点と同調できるモノなのか。 とりあえずの、MEMO。2004/5/29/SAT.<「葉千栄」、ひさしぶり。 フジテレビに登場。東海大学教授、である。 日本と中国との関係、経済は過去にないほど留意だが、政治は最低の状態、双方の首脳の訪問が、三年間なし。小泉の靖国参拝問題、尖閣諸島など。前者は、最高裁の判決もあり、「私人参拝」となるだろう、と。後者は、いちぶの人間だけのりえきにならないように、双方で環視し、調整すれば問題ないだろう。と、「楽観」している。 「政治思想史」を学びにやってきて、うるものはなかったと言って憚らない割には、相変わらずの「楽天家」ぶりをみせている。それがかれの良いところだが。最高裁の判決が出ようと、怯まないのが「小泉」だ。 きょうなども、先手必勝か、仙台で安部幹事長の街頭演説をやっている。参議院選挙をターゲットにしたものであることは、明白だ。桜井充への返礼か。三党合意遵守は、公党としての責務、北朝鮮、拉致家族「帰国」は成果と、その後の誠意在るしんてんがないばあいは、「考えなければならない」と、脅す。 まあ、元に戻して、中国では、「マスコミ」の国内隆盛に触れ、双方の安定的な関係のためには、かれらの自由さ、役割はっきが重要だと指摘する。 # by kbwgb834 | 2004-05-28 17:37
お気に入りの風景は?<風景>のことについては、結構な迷路にはいりこんでいる。いわゆる、「風景・論」だ。われわれが、日常目にしている風景、光景の感じが、意味がとつぜん変化することもある、のだ。30年近く前にみた、「富士山」。週一回、・・・・それを、20回近くみた。いちどとして、同じ「富士」はなかった。晩秋から、初春にかけての変化の時だったからかも知れないが。固定した、すまし顔の「富士」ではなかった。むしろ、見る前から、なんの根拠もなしに、そうした観念を持っている方がどうかしているのだ。 アラン・コルバン「風景と人間」、藤原書店。 「ねじ曲げられたさくら」のこと。いろいろある。 # by kbwgb834 | 2004-05-28 17:22
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